荒川弘の『百姓貴族』からほとばしるフロンティアスピリット

大ヒット作品となった「鋼の錬金術師」を世に送り出した漫画家・荒川弘さん。そんな彼女は由緒正しい“百姓貴族”でもある。その矜持を「百姓貴族」「銀の匙 Sliver Spoon」といった作品に込める彼女。新たな土地を開拓するかのように新ジャンルへ果敢に飛び込む荒川さんに話を聞いた。

» 2012年02月24日 18時00分 公開
[西尾泰三,ITmedia]
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荒川弘さん自画像

 『鋼の錬金術師』は言うに及ばず、大ヒット漫画を多数世に送り出す当代きっての漫画家、荒川弘さん。そんな荒川さんの作品で、現在話題となっている2つの作品がある。1つは新書館の隔月刊漫画雑誌「ウィングス」で連載中の「百姓貴族」。そしてもう1つは週刊少年サンデーで連載中の「銀の匙 Sliver Spoon」だ。銀の匙は、荒川さん初の週刊連載でもある。

 両作品に共通している要素、それは「農業」。荒川さんの実家は、北海道で酪農と畑作を営む専業農家で、荒川さん自身もそれを手伝いながら農業高校に通っていた。上京するまで家業を手伝っていた経験を基に描かれる両作品は、荒川さんの圧倒的な画力と相まって、農業に従事するということがどういうことなのかがいかんなく描かれている。両作品はニワンゴのニコニコ静画(電子書籍)でも期間限定ながら無料で読むことができる。

 銀の匙は早くも累計100万部を突破するなど、『鋼の錬金術師』を上回る話題となる予感すら覚えるが、エッセイ漫画として描かれる百姓貴族も銀の匙とは異なる味わいがある。2月25日に第2巻が発売される「百姓貴族」について、荒川さんに話を聞いた。

(出典:百姓貴族1巻 (C)2012 Hiromu Arakawa/ SHINSHOKAN Co.,Ltd. All rights reserved.)

“農業愛”がだだ漏れだ

(C)2012 Hiromu Arakawa/ SHINSHOKAN Co.,Ltd. All rights reserved.

―― 百姓貴族の新刊発売、心待ちにしていました! 荒川さんは現在、週刊少年サンデーでも「銀の匙 Sliver Spoon」を連載されていて、どちらも農業をテーマにした作品ですが、荒川さんの中ではどのように書き分けているんですか?

荒川 百姓貴族は、とにかくネタをポンポン出して読者に笑ってもらってナンボ、という感じで、悪く言えば「垂れ流し」ですかね。銀の匙は、「少年たちの成長物語」というテーマがあるので、キャラクターが成長するために使えるネタを私の実体験などから選んで持ってきています。

―― ネタは豊富?

荒川 それがですね、自分では面白くないなと思っていても、(百姓貴族の編集担当)石井さんに話すと、「面白いからそれ書きましょう」と言われたり、逆に笑いが取れないのはボツにしたり。小さいころから数えると25年間農家にズブズブで、上京して普通に街で暮らすようになって、そこから見えてくるものも結構あったりするんですよね。まさに「農家の常識は社会の非常識」だったというのが見えてきたりして。実家の敷地内に川が流れている話も、私には普通だと感じられることでも、「それは普通ではない」と言われたりして(笑)

編集担当のイシイさんとの掛け合いも楽しい(出典:百姓貴族1巻 (C)2012 Hiromu Arakawa/ SHINSHOKAN Co.,Ltd. All rights reserved.)

 ネタの引き出しが幾つかあって、編集さんと話す中で引き出しの中をちらちら見せながら決めていく感じです。編集者は最初の読者ですからここが肝要です。百姓貴族も銀の匙もあくまでストックの1つで、これが集大成とかいうことは全然ありません。

―― こうした農業漫画を手掛けられることで、荒川さんとしては、農業従事者が増えればいいなと考えていたり?

荒川 いえいえ、百姓貴族は笑ってもらえればいいやという感じです。銀の匙にもいえることなんですが、読者に農業をやってもらいたいなと考えてしまうと、その考えが文字や絵面ににじみ出てしまって農業礼賛になりかねないので。農業をやってた人間だから汚い部分もちゃんと書くべ、という気持ちでいます。

 でもやっぱり『農家スキスキ』はにじみ出てきます(笑)。家業への尊敬や郷土愛は程度の差こそあれ皆さんお持ちですよね? 私もそうです。だから“農業愛”はだだ漏れですね。

―― こうした農業漫画を描かれる際、実体験がかなり反映されていると思いますが、農業や酪農について、荒川さんの中で鮮明に記憶に残っているものはどういったものですか?

荒川 百姓貴族1巻でも描きましたけど、生死関連の痛ましいものは脳裏に焼き付いていますね。生まれて立ち上がれなかった仔牛の扱いとか。親牛の体内で仔牛が死んでしまい、ワイヤーでバラバラにして取り出さざるを得なかったりするのもそうですね。

 私が獣医になりたかったというのは百姓貴族の中でも描きましたが、獣医免許があると、投薬による安楽死が可能になるんです。せめて、せめて自分の家の牛は自分で、と思うんです。今でも獣医免許取っとけばよかったかなと思うことがあります。最近だと口蹄疫のときにそう強く思いました。

生きるための糧であり、遊び友でもある牛。家畜運搬車に乗せられていくときに、我が身の将来を察して泣く牛も(出典:百姓貴族1巻 (C)2012 Hiromu Arakawa/ SHINSHOKAN Co.,Ltd. All rights reserved.)

―― 人が家畜の生死を左右するなどの厳しい現実も描き出されていますけど、荒川さんが描き出す農家の姿からはある種の豊かさを感じます。「豊かさ」の定義は人それぞれですが、荒川さんはどういったときに「豊かさ」を感じますか?

荒川 豊かさと聞いてパッと頭に浮かんだのは、「テーブルを囲んでみんなでご飯を食べているところ」だったんですね。大人数で笑いが絶えないような。うちは多いときで家族11人が一緒に暮らしていたんですけど、大人数でテーブルでご飯を食べるというのが私の中の豊かさの象徴ですね。今にして思えばどうやって11人がちゃぶ台を囲んで食事していたのだろうと不思議ですけど(笑)。

(出典:百姓貴族1巻 (C)2012 Hiromu Arakawa/ SHINSHOKAN Co.,Ltd. All rights reserved.)

―― なるほど。荒川さんが今農業を取り巻く状況で気になっているトピックは?

荒川 やはり東日本大震災の影響で東北から野菜や乳製品などの供給が減ってしまっていることですね。田んぼも使えないような状態ですから。食糧基地たる北海道をはじめ、ほかの地域でそれをカバーしなければと思いますし、実際そう考えている農家は多いと思いますが、そこにきてTPP(環太平洋連携協定)のようなトピックもあって、何が起こるか本当に分からないですね。自分たちで販路を築ける自信がある方は戦えるでしょうが、お年寄りで後次がいないような農家だとこれを期に廃業するかという声も聞いたりして、

―― ちなみに、荒川さん自身は食へのこだわりなどはあるのですか?

荒川 今は埼玉に住んでいますので、埼玉で取れるものを食べようと心がけています。地産地消は燃料コストが掛かりませんし、何より近場のものはうまいですよ! じゃがいもなどは北海道の方がおいしいですけど、サツマイモは北海道よりこっちの方がうまい! うちの近くにはサツマイモ街道みたいな芋農家が多く集まるところがあって、そこに買い付けにいって実家に送ったりしてます。

『うる星やつら』を読んで「漫画ってこんなに美しいんだ」

―― さて、ここからは漫画家としての荒川さんについて質問させてください。ズバリ伺ってみたいのですが、荒川さんの“まんが道”というものがあるとして、それを言語化するとどのようなものなのでしょうか?

荒川 まだ語れるほど描いてないですけど、まだ誰も手を付けていないところに踏み出すというのが挙げられるかもしれません。『鋼の錬金術師』のときは、錬金術というネタを見つけたときに、「何で誰もこれをメインでマンガを描かないんだ」と慌ててネームを切った覚えがありますし、『百姓貴族』も、農業エッセイって誰もやってないじゃんってとこからです。『銀の匙』も、農業大学を舞台にした『もやしもん』などはありましたが、農業高校をがっつり描いた漫画ってないよね、と。高校なら自分の将来や進路で揺れる心理とかも描けるというのもあったんです。

―― 週刊少年サンデーの読者層である中高生からの共感も得られやすい設定ですよね。ところで、今から10年以上前のインタビューで、尊敬している漫画家として「のらくろ」の田河水泡氏を挙げていましたよね。

荒川 はい。保育園くらいのころ、地元の図書館に「のらくろ」が全部そろっていたんですよ。動物のディフォルメが抜群にうまいことと、キャラクターが生き生きと動き回っている絵に惹かれたんですね。ただのまん丸でしかないおまんじゅうがやたらおいしそうだったり(笑)。

1982年から1984年にかけてNHKで放送された「人形劇 三国志」。人形劇の形態をとった大河ドラマとして人気を博した(画像は諸葛亮孔明。人形美術家・川本喜八郎氏のサイトより引用)

―― そのほかに荒川さんに大きな影響を与えた作品はどういったものがありますか?

荒川 年代順にいくと、小さいころは先ほどお話ししたのらくろと、水木しげるさんの作品を読みあさっていましたね。その後が楳図かずおさん。ちょうどそのころ『洗礼』と『まことちゃん』を描かれていて。ギャグとホラーを両方描かれていて、作品のおもしろさもさることながら、その振れ幅がすごいなと。

 小学校に上がってしばらくして、高橋留美子先生の作品に出会ってしまって。『うる星やつら』のテレビアニメから入ったのですが、すぐに村で唯一の本屋にお小遣いを握りしめて走り、そのとき出ていた16巻を買いました。うる星やつらで漫画のテンポとでも呼ぶべきものを学び、「あぁ、漫画ってこんなに美しいんだ」と思ったんです。1話ごとが非常に高密度で、しかもそれを9年間続けられたというのは恐ろしさすら覚えます。

 その後は週刊少年ジャンプですかね。黄金期と呼ばれる時代です。学校に持ってきていた人のを呼んでいたりしました。

 そのほかは、三国志の影響が強いですね。小学校5年生くらいのときに「人形劇 三国志」が放映されていて。一次ブームがそこで、高校生のとき、また再放映されて私の中で二次ブームがやってきて、そこからずっとブームです。

―― 漫画業界全体についてはどんな状況にあるとお考えですか?

荒川 いろいろな面があると思いますけど、読み手が選べなくなってはいないかと少し心配なところはありますね。例えば今ですと、新人さんの賞を取った作品をWebで公開、といったこともありますけど、結局自分の好きなものしか読まなくなってしまい、一極集中になりやすいのではないかと思うことはあります。そうした意味では雑誌というパッケージの中で多様性を提示できる提供形態は偶然の出会いを喚起できるのでよいと思いますし、この先業界がどういった方向に進むとしても、本屋や雑誌が持っていた機能をどう時代に合わせるかというのは1つのポイントになるのかなと思います。

 先日、ワンピースの最新刊が初版で400万部というのが話題になりましたよね。「お、漫画読む人こんなにいるんだ」と勝手に指標にさせていただいているのですが、鋼の錬金術師だと単巻で200万部くらいだったんです。ここから私は「まだ200万人の読者がいるぞ、そこを開拓に行こうぜ」という気持ちになるんです。銀の匙も鋼の錬金術師読者とは違う新しい読者層を開拓したいという気持ちがあります。

 ただ一方で、そもそも漫画の読み方が分からないという声を聞くこともあり、そうした方にどうやって漫画を届ければよいのかをずっと考えているんですが、答えが出ないんですよね。先人が積み上げてきた漫画文化は読者の共通認識であるという考えで描いていますけど、現実には読み方が分からないという方もいますので、そうした状況をどう変えていくかも課題ですよね。

―― 今回の百姓貴族新刊発売記念として、ニコニコ静画(電子書籍)で1巻と2巻の一部が無料配信されていますね。アニメは知っているが漫画作品は知らないというユーザーは珍しくなく、それらの橋渡し役にならんとするニワンゴの取り組み、あるいは電子書籍に対してはどういった印象をお持ちですか?

荒川 AmazonのKindleでしたっけ? 作家とAmazonがいればその中間は不要という感じだと思いますが、私個人について言えば、途中でチェックしてくれる人がいないととんでもない間違いを配信してしまう心配があるので、間に編集者さんが入ってくれた方がいいと考えています。

 基本的に紙媒体と電子媒体はうまくすみ分けるようになると思います。制作側も紙に書いたことがない新人さんも珍しくありませんから。私は本屋に足を運んで本との出会いを楽しみにする人間ですし、紙の本が好きですが、画面で読むのが好きという方もおられるでしょうから、それを否定するつもりはまったくありません。

―― 時代の流れが漫画の描き方に影響を与えているような部分を感じていたりしますか?

荒川 そうですね。例えば昔は1ページに7〜9コマが珍しくなかったんですけど、最近だとあまりコマを詰めすぎるとゴチャゴチャしてると思われるようですね。ぎゅうぎゅう詰めだっていうなら作画面で背景をあえて描かないコマやあっさりとしたコマを入れてページ全体でバランスを取るなどして、情報量は多く、でも展開は早く、読みやすく、を意識しています。私自身が情報量が多い漫画を見て育ってきたので、一度でたくさん読める方がいいよねという気持ちが反映されているように思います。でも、こうした技術的な部分の言語化は苦手です。「バーッってやってピャーってやってダーッってやればいいんだよ」というノリですけど(笑)。

―― ありがとうございます。では最後に、百姓貴族第2巻のみどころを。

荒川 うちのオヤジがハリウッドばりのえらいことになります!

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