青山学院大学経済学部で進む電子教科書導入、その意図と課題――宮原経済学部長に聞く

大学における電子教科書の導入。青山学院経済学部では、2013年からの実験運用を経て、導入を拡大している。電子教科書の意義と課題について、青山学院大学経済学部長の宮原勝一教授に聞いた。

» 2014年08月20日 10時00分 公開
[西尾泰三,eBook USER]
BookLooper BookLooper

 電子書籍の普及が着実に進む中、今、関係者が熱い視線を注いでいるのが教育分野、特に電子教科書だ。

 日本国内でも政府が2020年までにすべての学校で1人1台のタブレットを導入したIT授業を実現することを目標に推進しており、業界内での競争が一層激しくなっている。

 電子教科書分野では義務教育段階での取り組みに注目が集まりやすいが、最高学府である大学でも取り組みは進む。複数の大学による合同実証実験なども実施される中、青山学院大学(以下、青学)の取り組みは精力的だ。

 青学では2013年9月、経済学部現代経済デザイン学科で、翻訳教科書『スティグリッツ公共経済学』(上・下)を電子化し、閲覧用のタブレット端末と合わせて、学生に貸与する実験運用を実施。今春からは対象学生を同学部全体へと拡大。コンテンツ数も増やし、端末の貸与ではなく、コンテンツデータを配信することで、より多くの学生が電子書籍を利用できるようになった。

 この取り組みを進める青山学院大学経済学部長の宮原勝一教授に、実験の目的や、参加した学生たちの反応、大学が電子教科書を採用する意義などを聞いた。インタビューには、青学経済学部が導入した電子書籍配信サービス「BookLooper」を販売する京セラ丸善システムインテグレーション(KMSI)から、津田康弘氏、木村恵介氏にも同席頂いた。

大学の教科書事情とビッグデータによる学習支援の方向性

青山学院大学経済学部長 宮原勝一教授 青山学院大学経済学部長 宮原勝一教授

―― 最初に、大学の教育現場で今、教科書はどのような位置づけになっているかからお聞きできますか。

宮原 これは私の意見ですが、やはり教科書は重要なものだと考えています。事実として、大学での講義に教科書を持ってこない学生は少なくありません。しかし、指導する教員としてはその講義を受けるに当たって基本的に知っておいてほしいことや、講義時間内では指導しきれない内容を補完するものとして教科書を指定しています。そういう意味で、教科書は大学教育の現場でももっと活用されるべきだと思うのです。

―― 学生が教科書を講義に持ってこない、教科書があまり活用されない大きな要因は何でしょう。

宮原 大学の教科書、特に1年生の時に学ぶ各学問分野の基本書の多くは、かなりの厚さがあり、重さもそれなりです。履修科目も多いため、必然的に教科書の冊数も多くなり、持ち運ぶのに負担も大きくなる側面は強いと思います。あとは、専門的な授業であればあるほど、教科書を(買ってはいても)授業の場に持ってくる動機が薄くなる、とも思いますね。

―― 青学が2013年9月からKMSIと取り組まれている電子教科書活用実験では、経済学部現代経済デザイン学科の1年生70人にタブレット端末を貸し出し、電子教科書を閲覧できるようにするというものでした。この実験の目的を改めてうかがえますか。

サービスイメージ サービスイメージ

宮原 もともと学部で検討していたのは、ただ単に教科書を電子化しようという話ではなく、ITを活用した学生の学習支援ができないか、というものでした。そうした中で、学生の実質的な学習行動・学習時間を時間軸にそって記録し、そのデータを活用することで学生たちに的確な学習支援が可能なのではないかという話が出てきました。

 例えば教科書が電子化されると、誰がどのページをどれだけの時間を掛けて読んでいる、といったデータを得ることができます。多くの学生が特定のページを長く読んでいる、といったデータがあれば、そのページは重要だということで改めて注意を促したり、教員が説明しているのとは違うページを開く学生が多い場合には、説明がまずかったということも考えられますので、どのようにすればより学生に的確に伝えることができるのかという、教員が考えるきっかけにもなります。

 話を戻しますと、もともとはビッグデータによる学習支援という話から、すぐに着手できそうな電子教科書の導入にかじを切って始めたということです。

学生の反応は、対象にならなかった学生の反応が鮮明に現れた

―― なぜ経済学部からのスタートとなったのでしょうか。

宮原 経済学という学問は、元々情報の分析やビッグデータの活用といったITの活用と親和性の高い分野になります。そうした点から、経済学部で始められたのではないかと考えています。

―― 昨年からの実験に参加したのは、現代経済デザイン学科の140人のうちの半分に当たる70人ですよね。学生からは、どのような反応がありましたか。

宮原 昨年は70人と人数を区切って抽選で対象学生を選びましたので、実験参加を希望したけど参加できなかった人や、対象外となっている2、3年生からは、「この本を持ち歩かなくていいのか」とうらやましがる声が聞こえてきました。持てなかった学生の反応の方が鮮明というか、明確でしたね。

 昨年度は、タブレットを貸与する形で電子書籍を閲覧させていて、端末の返還時にアンケートも採りました。その回答を見ると、「(紙の教科書を)持ち歩かずに済んだ」「通学に便利」。つまり通学時間に読めたということなのでしょう。あとは「重い物を持ってなくてよかった」「勉強しやすかった」。このほか、今回採用した電子書籍システムの「BookLooper」は検索機能がとてもよくできているので「すぐに見たいページを検索できた」という感想もありました。一部には「紙の方が見やすい」という声もありましたが。

―― ちなみに、このときに学生に貸与したのはAppleのiPadですか?

宮原 iPad miniが35台、Nexus7が35台です。Nexus7は2012年モデルで画面解像度の違いなどもあってか、Nexus7を使った学生の全体的な満足度はiPad miniを持った学生よりもかなり低いものになっていました。端末の使いやすさ、みたいなところもあるのでしょう。「紙の方が見やすい」という感想を書いてきた学生もNexus7でしたね。

「進められるやり方で、いろいろな施策を実施して成果を出していこう」と取り組みの背景を語る宮原氏

―― 今、こうした電子教科書の活用の取り組みというと、他大学でも共同して進めているところもありますが、青学は単独でされていますよね。その辺りの意図をお聞きできますか。

宮原 なかなか共同で、とならないのは、今回限られた本を電子化する上でも、教員の理解を得るために、結構高いハードルがあるという実感があるからです。紙で持って意味がある、と考えている研究者もいるわけで。

 それから、何でこの教科書なのかと。つまり、ミクロ経済学、マクロ経済学という限定された科目でも、(教科書として)同じ名前の本はたくさんある中で何でスティグリッツなのか、他に適切な本があるという議論も起こり得ます。それを他大学に広げようとか、学内の他学部と共同で、となると、たぶん進められないだろうな、と。

―― スピード感を重視したということですね。KPIのような指標は設けられていたのですか?

宮原 そこは厳密に考えているわけではありません。学生の満足度が高いとか、これによって学生の成績が上がったとか、そういうことが明確になると、目安にはなりますが、その一方で「電子か紙かで成績が変わる授業って何」ということにつながります。

 学生の知識の定着と成績の向上にきちんと寄与するものであれば、どんどん広げていくべきだし、すべてを電子化じゃなくて、それが本当に必要な部分、なじむところに効果を期待せずに広めていくことをやった方がいいと思っています。

―― ところで、先ほどビッグデータのような話がありました。データを解析して、学生や教員にフィードバックするのは誰なんでしょう。

宮原 そこが一番大変だと考えています。学内教員の誰かがシステムの管理担当者になるわけですが、例えば、学部長や主任が管理担当者として各先生方の授業の中身を見ていると思われると、管理担当者が糾弾されることもあり得ます。

 教員同士、互いの授業に口出しはしないという雰囲気が少なからずあり、こうした点は教育課程という点では改善していかないといけないと思っていますが。

 一方で、「取得した生データを全部先生方にお渡ししますのでご自由に使って下さい」となると、それはそれで、学生の行動など、個人情報がすべて出てしまうことになります。情報にアクセスする権限を持っている人間が増えることは、情報漏えいのリスクを高めることになるため、慎重に考えなければいけません。

 ただ、そうした要因がすべてクリアになるまで待っていては何もできません。とにかく進められるやり方で、いろいろな施策を実施して成果を出していこうと電子教科書から先鞭をつけたのです。

仕組みはあってもコンテンツがなければ……出版社との交渉

―― 本年度からは対象学生を経済学部全体の559人に拡大されましたね。昨年の実験を踏まえて、本年度の実験ではどんな部分が変わっていますか。

宮原 今年度の学生たちは、学校が端末を貸与するのではなく、各自が保有するスマートフォンやタブレットにアプリをインストールさえすれば、教材を利用できる環境を整えました。いつでも簡単に教科書を見ることができる環境は作ったといえると思います。

―― 現代経済デザイン学科向けには、昨年度から導入している翻訳教科書『スティグリッツ公共経済学』(上・下)に加えて『スティグリッツミクロ経済学』『マンキュー経済学 II マクロ編』。さらに新たに実験対象となった経済学科向けには『マンキュー経済学 I ミクロ編』『マンキュー経済学 II マクロ編』と、コンテンツ数も増えています。これらの教科書はどう選定されていったのですか。

宮原 私から、教科書のリストをKMSIへ提供し、出版社と折衝していただいて、許諾を得られたものから電子化いただいた形です。

 実験は1年生を対象として考えていましたので、これから専門的な学習を始める学生が押さえておくべき基本書を前提としていました。経済学でいえば、ミクロ経済学、マクロ経済学、経済史、統計学といった分野です。今回選んだスティグリッツやマンキューの経済学の教科書というのは、まさに経済学の基本書。1年使ったらおしまいというものではなく、4年間ずっと横において学習に使えるものを選びました。

―― 電子化されていない、あるいは電子化される予定がない本を、出版社に依頼して電子化してもらった、という状況ですか。

宮原 はい。専門書の場合、ほとんどは大学などで使われる用途ということになりますが、大学教員の中には、まだまだ電子書籍に関心を持たなかったり、「紙で持っていることに意義がある」といった考えを持つ研究者もいます。電子化してもビジネスとして回収できるのが難しく、専門書の電子化はまだまだ進んでいません。

 専門書には翻訳書も多く、日本の出版社だけでなく、海外の原著の出版社にも許諾を得なければいけません。KMSIから聞いている話では、米国ではすでに電子書籍がきちんとしたビジネスとして成り立つ環境ができていることから、電子化に掛けられるコスト意識でかなり大きな隔たりがあったようで、そういった意味では出版社にも大きな苦労をしていただいたのだと思っています。

KMSI 文教ソリューション本部電子書籍企画室副室長の津田康弘氏(左)と文教ソリューション事業部 本社文教ソリューション部文教ソリューション2課の木村恵介課長

津田 特に、この本はいわゆる翻訳本なので、エージェントがいたり、原著の著作権の確認があったり、などが発生している本ですね。単純な電子化のコストというよりは、版権コストのウエートが大きく、かなり出版社の方にも尽力いただきました。仕組みはいろいろありますが、コンテンツを調達できないと、仕組みがあっても使えませんからね。そうしたご期待にすべておこたえできたのではないかと思います。

―― ちなみに、出版社とのコンテンツ提供交渉について、金銭的な部分はどのようになっているのでしょうか。

津田 今回の取り組みでは、学生たちが紙の書籍を購入することが前提になっています。その上で、+αの金額を出版社にお支払いすることで紙と電子の両方を使ってよい、ということで話がまとまっています。その+αは学部側で負担されていますね。

宮原 今回の取り組みは、本当に東洋経済新報社さまの理解の下、実現できていると思っていますが、それでもやはり今学部が負担している+αの部分が付加価値、あるいは学生のメリットという形で顕現化しないと、学生負担、ということにはできません。この問題は、出版社がどう変わっていくかによる部分も大きいかと思いますが、大学側で付加価値をきちんと示していく必要もありますね。

BookLooperへの期待

―― KMSIの「BookLooper」をシステムとして採用していますが、これはどのような基準で選ばれたのでしょうか。

宮原 最大の理由は、BookLooperに、読者の閲覧行動を把握する機能があったことです。

 もちろん、このシステムがこの先もずっと使い続けることができて、学生たちに変わらぬ学習環境を提供し続けることは重要ですし、それができるかどうかは不安の種として残っています。しかし一方で、この分野のIT技術は日進月歩で、既存のシステムが数年間使い続けられることの方がまれです。こうした電子教科書の取り組み自体が他大学などへ広がれば、特定のシステムに縛られることなく、学生たちに電子教科書によるより良い学習環境を提供できるようになる可能性の方が高いと考えます。

 ですから、まずはあれこれ要件を考えて悩むよりも、とにかく始めてみて、動き出して初めて分かることがありますから、そういう問題に対処しながらとにかく前に進もうと取り組んでいるところです。

―― システムベンダーとしてのKMSIのコメントもいただければと思います。

木村 今回の取り組みは、1つの学部から小さく始められて、そこから広げていくやり方ですが、これは本当にうまいやり方だと感じています。

 おかげさまで今、BookLooperは引き合いが多く、あちこちで大学さんにご紹介させていただいていますが、先ほど先生の話にもあったように、電子自体にアレルギーを持たれている先生もおられまして、まずはそういう始められるところから始めていって、成功事例を作っていって他の学部、学科に広げていかれようとされている、そのやり方が本当にスマートですね。

教科書に戻らせる仕掛けこそ必要、変化する大学教育

―― 今回の実験で、課題という点では、どのようなものが見えてきましたか。

宮原 1つ目は教員の意識です。

 紙の教科書が電子化されたといっても、しょせんは教科書。それが紙であろうが電子であろうが、学生にただ「教科書を見ろ」といったところで、見てくれる学生はわずかです。“教科書に戻らせる仕掛け”をこちらが作らないとなりません。

 学生たちは教授が黒板やホワイトボードに書いていることを、ただ書き写したりしているだけで、よほど熱意のある学生以外は教科書に立ち返って理論をきちんと身に付けるような学習はしてくれません。最初のうちは、紙が電子になったこと自体に興味を持ち、面白がってくれるとは思いますが、結局のところ、教員が他の補助教材などと組み合わせながら、学生に対してどのように教科書に興味を抱かせる授業を行うかが最大の課題かと思います。

―― 大学は義務教育ではありませんから、意欲のある学生が自分で学びとる場だという主張もありそうですが、宮原教授はそうではないとお考えでしょうか。

宮原 はい。私は、そこは大学が変わっていかなければいけないと考えます。

 教員の中には、自分たちは専門家集団だから「授業は自分の思うことをやればいい」という意識を持っている方もいます。しかし、学生の学びのスタイルも変わってきている中で、大学だけが今まで通りのやり方を取っている状況からすると、もう少し大学レベル、あるいは全国の大学レベルの、本当に専門知識として最低限必要な知識のスタンダードがあり、それをきちんと教科書を使って学生に教えるということがあってもいいような気はします。

―― ほかにも課題はありますか。

宮原 大学での電子教科書ならではという視点でいえば、コンテンツ選定の難しさを感じています。

 大学の教科書は小中高校のような検定制度はなく、一般書籍の中から教員が教材として指定したものが教科書になります。つまり、教員の数だけ教科書があり得るため、共通の教科書として指定されるものではありません。

 そうなると中には、例えば同じ経済学部の教員でも、各人の考え方が異なり「基本書として取り上げるべき本は、この本ではなくて、こちらの方がいいのではないか」といった議論が出てきます。学内全体や他大学と連携して大きなプロジェクトとしてこうした事業を進めようとすると、どうしても関わる人間の数が増えることで、主張がぶつかり合い、物事が進まなくなってしまいます。

―― 昨年、現代経済デザイン学科だけのスモールスタートとしたのもそうした事情からだったのでしょうか。

宮原 そうですね。意思決定に関わる人数を最小にとどめ、合意形成しやすくすることで、スピードが鈍らないことを重視しました。動きを進める事で、目に見える一定の成果が見えてきましたから、他の人たちも後に続きやすいと思います。青学内でも、他の学部が経済学部の取り組みに関心を抱き、自分たちの学部でもやりたいといった声が出始めています。

―― 波及し始めたということですね。次の段階はどのような取り組みになるのでしょう。

宮原 まずは、この教科書に準拠した問題を、eラーニングのように学べる環境を整えていきたいと考えています。実際、いけそうだな、という感触もあります。

―― 語学分野での活用はよく耳にしますが、経済の、それも専門書と連動したeラーニングは珍しい取り組みになりそうですね。その部分もBookLooperの機能として実現することになるのでしょうか。

宮原 KMSIと調整が必要な部分ですが、私の希望としては、学生の基本的な学習環境はすべてBookLooperの中にあり、BookLooperを介して問題に取り組むという仕組みを作りたいと考えています。

津田 当初のBookLooperのご期待にありましたように、BookLooperは、読者の行動を把握できます。その特徴を生かして、学生の行動分析などにも今後積極的に取り組んでいきたいと思いますし、今お話に出ましたeラーニングのような仕組み、動画音声との連動なども前向きに取り組んでいこうと考えているところです。

―― そうしたフェーズに移行するのはどの位のスパンで考えておられますか。

宮原 今年度から、学部内の1年生を対象に電子教科書を閲覧できる環境を整えました。そして大学側が用意すべき、2年生になっても電子教科書を使い続けるためのコスト的な環境も既に整えてありますので、できるだけ早く、率直に言うと来年の4月から教材を提供することを目標に、動き続けたいと考えています。



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