よく「電子教科書」「デジタル教科書」と言われるが、厳密には「教科書」ではない――教育現場で利用されている教材の電子化は、さまざまな課題が山積している。教科書出版の老舗、東京書籍がACCESSとともに発表した電子教材のビューワが業界に投げかける意義とは? 両社に聞いた。
弱視や色弱、読み障がいなど、一般的にレイアウトされた書籍を読むことが難しい人にも平等な学習機会を提供する教材。文字の拡大や色の変更が容易な電子書籍は、登場の初期から障がい者に対応できる機能が期待されてきた。
しかし、教科書には一般書籍とは異なる特殊なレイアウトで組まれており、紙の紙面をデジタル画面上で正確に再現するだけでも高度な表現力が求められる。また、障がい者対応という要件も求められるため、実用的な障がい者向け電子教材はなかなか普及してこなかった。
2014年2月、日本の教育界で最初期から教科書制作に関わってきた教科書出版の老舗、東京書籍が「特別支援を必要とする学習者に配慮した電子教材」のビューワを発表した。
この発表は、ACCESSの教材向け電子書籍ビューワ「PUBLUS Reader for Education」(Windows版)を採用し、両社協働で電子教材を制作・販売・配布するというもの。障がい者自身やその教育に関わる人たちにとって成果が期待されるこの取り組みについて、東京書籍の高野勉氏、長谷部直人氏、ACCESSの浅野貴史氏、石橋穂隆氏に話を伺った。
―― 最初に、東京書籍の歴史を簡単に教えていただけますか。
高野 弊社は1909年創業の教科書出版社で、創業当初は国定教科書を印刷、製本して発行する会社でした。現在は教科書を自主的に編集・発行しており、100年以上にわたって一貫して教科書に取り組んでいます。
―― 今回発表されたのは「特別支援を必要とする学習者に配慮した電子教材用ビューア」ですよね。ところで、「電子教材」と「電子教科書」は意識的に使い分けられているのですか?
高野 はい。現在の法律で「教科書」というのは、文部科学省が公示する「教科用図書検定基準」に合致した教科用図書だけを指す名称で、電子図書はまだこの検定の対象となっていません。そのため、現在教育現場で利用されているデジタルの教材はすべて単なる「教材」です。よく「電子教科書」「デジタル教科書」と言われますが、厳密には「教科書」ではないのです。
―― なるほど。
高野 教材も「学習者用教材」と「指導者用教材」に大別できます。前者は学習する人たちが利用するもの、後者は先生が画面を黒板やプロジェクターなどに掲示して学習指導に用いる教材を指します。
国内では電子黒板の普及が進み、多くの学校で電子教材が利用されていますが、その大半は指導者用教材で、写真や図といった資料を大きな画面で提示し、学習者の理解を深めるために使われています。
―― 学習者用教材の電子化における課題はどういったものが挙げられますか。
高野 学習者用教材の代表がいわゆる教科書ですが、デジタル化され、EPUBなどの形式でリフローできるようになると、ページ数の概念がなくなるため、先生が「何ページを見て」などの指示が行えなくなります。
一方でPDFなど固定レイアウトの場合は、文字を大きく拡大するとページ全体が拡大され、表示される範囲をずらしながら読むという操作を伴い非常に読みにくくなります。
長谷部 著作権の問題もあります。教科書というのは、教科書出版社が発行していますが、収録されている図版や文章は、第三者から許諾を得て掲載しているものが数多く――場合によっては1冊の教科書の中で数百点以上――存在します。そうした著作物1点1点について電子化の許諾を得て掲載するのはなかなか難しく、掲載許諾を得られなかった場合には教科書のその部分だけ穴が開いてしまうリスクがあります。こうしたことから、現状、学習者用の電子教科書はなかなか普及していません。
―― 特別支援が必要な学習者への教材は、現状、どういったものがあるのですか。
高野 弱視など視覚に障がいを持つ方たち、あるいは、視力そのものに問題はなくても、文字を認知することに障がいがあるディスレクシア、いわゆる読み障がいを持つ方がいます。弱視の方に対して現在は主に「拡大教科書」と呼ばれるものが使用されています。
拡大教科書とは、その名の通り、教科書の内容を拡大したものです。本文だけでなく図版中の文字や注釈など、紙面すべての要素を拡大して再レイアウトしなおした図書を指します。
かつてはこうした書籍を、ボランティア団体が1点1点手作りで制作し、配布していました。2008年9月に施行された教科書バリアフリー法(障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律)により、障がい者への対応が努力義務として明記されたことから、現在は義務教育用のほとんどの教科書で教科書出版社が拡大図書を制作しています。
大量に制作することで、より多くの子どもたちに拡大図書を届けられるようになりましたが、反面、限られたパターンのものしか制作されなくなりました。出版社が提供する拡大教科書で問題がない子どもならばよいのですが、さらに重度の障がいがある場合、提供された拡大教科書をさらにルーペで拡大して読む、といった状況が起きています。
また、拡大図書は必然的に書籍の判型が大きくなり、1冊だったものが2冊に分冊になったりと通常の教科書よりも大きく、重くなり、子どもには扱いにくいものです。加えて、ほかの子どもとはまったく違う見た目の本を使用することになるため、拡大教科書を嫌がって使用しない子が相当数いると考えられています。
長谷部 教材のデジタル化、そして高い表現力を持ったビューワにより、障がいの軽重に関わらず、ほかの子どもたちとまったく同じ端末を使用しながら、自分に最適な状態の表示を選択できます。これは障がい者向けの1つの教材を制作することにとどまらず、より大きな成果へとつながる取り組みだと考えています。
―― パートナーとしてACCESSのPUBLUSを選んだポイントは高い表現力であると。
長谷部 EPUB 3のリファレンスビューワであるReadiumは、日本語に対応したEPUBビューワエンジンとして現時点で世界最高峰ともいえる表現力の高さを持っていると思います。ACCESSはそのReadiumにエンジンを提供されていますし、技術革新に先進的に取り組む姿勢や技術的対応力の高さも魅力でした。
教科書というのは小説などでは使われない特殊な組版技術――例えば漢文では文章の左右両方にルビを振ったり、数学の数式で特殊な上付き、下付き文字など――を正確に表現することが求められ、一般的な書籍よりも雑誌に近い表現力が必要です。
石橋 例えば歴史上の人物や神様の名前など、漢字の文字数とルビの文字数が大きく異なる単語などもよい例ですね。どの文字にどのくらいのルビを当て、余白をどの程度取るのかは教科書出版社ごとに異なります。罫線も単線、二重線はもちろん、破線、波線などさまざまな線を引ける必要などもあります。
―― 出版社ごとに異なるルールの表現があるということですね。紙の教科書の制作現場はどのように運用しているんでしょうか。
長谷部 こうした特殊な組版を行う紙の教科書制作現場では、例えば製版から印刷する途中のフィルムを切り貼りして形を整えるような、熟練の組版技術者の腕に頼って制作している部分があります。
長年のノウハウの蓄積がある紙の制作現場でもこの状況なので、電子版を作るとなると、特殊な組版を画面上で正確に再現するレンダリングエンジンが必要になります。指導者用教材ならともかく、教科書のような学習者用教材の完全な電子化はまだ難しいと考えていた理由はここにあります。
ところが、ACCESSに現在の紙面製作で使用している生の組版データをお渡し「これを再現できますか」と依頼したところ、かなり短期間でほぼ完ぺきに画面上で再現していただき衝撃を受けました。全体のレイアウトを変更しないポップアップによる文字の拡大表示や、問題ドリルなどのインタラクティブな機能、2D/3Dによるグラフィカルな表現までできることも注目しました。
―― ACCESSが今回提供する「PUBLUS Reader for Education」はどんなカスタマイズが加えられているのですか。
石橋 PUBLUS Reader for Educationは、PUBLUSをベースにカスタマイズしたものです。もともと、PUBLUSの表現力を向上させる研究と、教育への電子書籍利活用を視野に入れ、両面から機能強化・研究を進めていたものです。
―― ベースのPUBLUSとの違いは?
石橋 3つのポイントがあります。1つ目が、先ほど今回評価いただいたポイントとして挙げていただいた高い表現力です。弊社はReadiumにエンジンを提供していますし、製品においてもベースのエンジンは同じです。PUBLUS Reader for Educationは、IDPFの標準にのっとったEPUBデータを忠実に再現できる基盤の上に、さらに高度な表現力を載せているのです。
―― 世の中には独自の方法で表現力を高めた結果、EPUB標準で制作されたコンテンツがきちんと表示できなくなってしまっているようなケースもありますよね。
石橋 そうですね。汎用性と表現力を高いレベルで同居させるのは難しいですから。
2つ目は、オンライン/オフラインのどちらの運用形態にも対応できることです。SDカードなどの記録メディアを使ったコンテンツ配信や参照も可能ですので、事業主体となる方々がイメージした運用に合わせた形でお使いいただくことが可能です。
3つ目はコンテンツの制作手順書を提供する点です。こちらは東京書籍をはじめ複数の出版社にご協力いただきながら、従来の紙の教科書をEPUBで出力する技術的なコストを極力簡素化していただけるよう、実践的な内容に即した形の手順書を、これから取り組みをされる出版社へ向けても提供していく考えです。
―― ACCESSから見た今回のプロジェクトの意義はどのようなところにありますか。
浅野 この数年、EPUB2からEPUB3になり、縦書きに対応したことで、欧米に遅れて電子書籍業界が日本国内でも盛り上がってきました。すでに欧米主導で先行している感はありますが、技術の標準化が進む中で、この流れを日本の教育界が困らないようにするために私どもがどのような貢献ができるのかを考えて取り組んでいきたいと思っています。
―― この取り組みは今後、どのような流れが想定されますか。
高野 今回の事業は私たち2社だけではなく、特別支援教育の現場で、教育方法を研究されている識者の方々からもご協力をいただいて進めていきます。まずはデモなどを制作し、それを教育の現場で実際に使って頂き、子どもたちからフィードバックをもらって、さらに改良を加えていく。そうした中長期的な視座から、より良いもの、皆さんに使って頂けるものにしていく必要があると思っています。
このビューワが普及すれば、障がいがあり、本を読むのがおっくうだった人たちに対して、かなり快適に文字を読む環境を提供できることにつながるはずです。教育現場だけでなく、文字文化ほぼ全域で、広範囲に活用できる成果となります。
―― しかし、ビューワがあってもコンテンツがなければ、ということですね。
高野 そうですね。これまで電子書籍の採用に消極的だった出版社にもこの取り組みを知ってもらい、自社コンテンツの電子化を考えるきっかけにしてもらえたらと思います。
長谷部 教科書は記載の内容に特に誤りが許されないため、これまで制作してきた電子教材では、紙の書籍用に校正をかけたデータを使用することで、一定程度のデータの信頼性を担保してきました。
しかし、今回のようにEPUBを基にした電子教材を作る取り組みとなると、まったく別の形のものをもう1つ作るといってよく、紙の教材と同レベルの校正をもう一度行う必要が出てくると考えています。
実際のデータを使用して1冊丸々変換をした際、数式が正確に再現されているのか、ルビの間隔はこれで大丈夫か、などをチェックする負荷は無視できない課題ですので、実際の制作段階で発生する課題へもどう対応していくのかもプロジェクトを進める中で向き合っていきたいと思っています。
浅野 ACCESSとしては、ビューワの開発はもちろんですが、現状の紙の組版データから電子データをいかに効率よく制作できるかというオーサリングの部分や、オンラインでの配信の仕組みなど、共通化、標準化できる部分はその仕様をオープンにすることで各社が活用できるようにしたいと考えています。そうしてこの事業の成果を各方面に取り込む形で、PUBLUS自体をより良い教育プラットフォームとして進化させていきたいです。
―― 大きな成果が実ることを願っています。本日はありがとうございました。
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