インタビュー
» 2014年01月07日 11時45分 UPDATE

ついに新シリーズが単行本化! 京極夏彦さんインタビュー (1/2)

出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』第53回は新シリーズ『書楼弔堂 破暁』が単行本化した小説家・京極夏彦さんにお話をうかがいました。

[新刊JP]
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 出版界の最重要人物にフォーカスする『ベストセラーズインタビュー』。第53回目となる今回は、小説家・京極夏彦さんが登場です!

 京極さんの新シリーズ『書楼弔堂 破暁』(集英社/刊)は明治20年代の東京を舞台に、古今東西の書物が集う“弔堂”にやってくる文人や軍人らと、膨大な知識量を持ちながら何か過去を持つ主人のやりとりを描く、本をめぐる連作短編集。京極さんの別の小説シリーズと交わる部分もあり、ファンは必読の一冊です。

 さらに「書店とは何か」「本を読むこととはどういうことか」といったテーマも物語に重なるなど、読みどころの多い本作について、インタビューをしました!

(新刊JP編集部/金井元貴)

出版のシステムは古くからある不変のものではない

fhfig834.jpg 『書楼弔堂 破暁』

―― ついに『小説すばる』で連載されていた新シリーズ『書楼弔堂』が単行本化しました。

京極夏彦さん(以下敬称略)  そうですね。最初は新シリーズにするつもりはなかったのですが、結果的に新シリーズになりました(笑)

―― 物語の時代背景が明治25年から26年ころ、ちょうど明治時代の中ごろに設定されています。この時代を選んだ理由は?

京極 ちょうどこのころ、出版業界は大きな転換期にあったんです。今は本屋さんは本を売るところだし、出版社は本を作る会社ですが、当時はそうではなかった。書店の組合ができたのも明治二十年代ですし、新刊書の小売と版元が分かれ、取次と書店が分離して、現在のシステムが整いました。製造・販売・流通の仕組みが分離して、整理された時期なんですね。

 それまでは、庶民にとって本は買うものではなくて借りるものでした。お坊さんや学者などのような一部の人たちを除いて、本を個人で所有することは少なかった。ふらっと立ち寄った書店で面白そうな本を買うなんてことはなかったし、通勤通学の途中に本を読むなんて文化は、まったくといっていいほどなかったわけです。でも現在、わたしたちは、本は手軽に買えて普通に読めるものだと思っているんですが。

―― もうそれが当たり前の文化として育ってきたので。

京極 生まれたときからそうですからね。また、古書店と新刊書店もまったく違うものだと思っていませんか?

―― そうですね。違うものという感覚です。

京極 大量の新刊が全国で一斉に発売され、それが大勢に買われ、それが定期的に繰り返されるという仕組みがなければ、古書も新刊もない。単に発行年が違うというだけですし、個人が“所有する”ということがなければ、ユーズドという概念は生まれません。レンタルDVDを古DVDと呼ぶことはありませんよね。市場に出ればユーズドですが。古書店というのはこの明治20年代の大きな転換を経て出来上がった業態で、江戸時代にはなかったんです。『書楼弔堂』はその移行期が舞台です。

 出版不況といわれて久しいですし、業界自体がいろいろと揺れていますが、そもそも今のシステムが当たり前かつ盤石なものかというと、そうじゃないんですよ。今のシステムが伝統的に続いてきた不変のものだというのは誤った認識です。常にその時代のニーズに合わせて、送り手がいろいろと工夫を凝らした結果、今の形になったにすぎない。合わなくなったら変えればいいんだと思いますが。

―― その大きなテーマをこの『書楼弔堂』という小説を通して描こうとした。

京極 研究書や新書ではないので、そういうテーマ性のようなものはありません。あくまで小説なので、面白ければいいという程度のものです。読者は現代人ですから、時代による認識の差を面白く読んでいただければ。

―― 確かにこの物語は、明治20年代を舞台にしながらも現代的なテーマを内包しているように思いました。情報の接し方、本の読み方など、弔堂の主人の言葉がすごく胸に突き刺さるものがあって、なぜ自分は本を読むのだろうという疑問と対峙しながらページをめくる感覚がありました。この書楼弔堂という奇妙な書店のモチーフはあるのですか?

京極 あんな建物はないですね。作中には丸善さんや東京堂さんのように実在する書店も出てくるのですが、僕は明治時代から生きているわけではないので(笑)そちらも想像です。そもそも、この弔堂が東京のどこにあるのかも僕は知らないです。

―― そうなんですよね。まったく書いていない。

京極 作中でも、実在してるかどうか怪しいですね。3階建てと書いてありますが、主人と小僧以外階上には上がっていないし、その主人も小僧も人間っぽくない(笑)。作者が存在に自信が持てないくらいですから、モデルはないです。

―― 弔堂は読めば読むほど不思議な書店というか、どれだけ本があるんだという気がしました。

京極 だいたい僕の小説には、たくさん本を持っている人が出て来るんですね。なぜだか分からないけれど(笑)。

―― それは、京極さんご自身が本をたくさん持っていらっしゃるからじゃないですか?

京極 そんなつもりはないんですが。ただ、本というのは不思議なもので、一般に嫌われている黒光りする虫と同じように、1冊見つかったら30冊はあると思った方がいいですよ。『俺、本なんて1冊しか持ってないよ』という人も、家捜ししてみてください。きっと30冊はあります。「本は読まない」と断言している方も、必ず家のどっかに本はあります。それは認めた方がいい(笑)。そして、本のある生活と向き合いましょう。

『書楼弔堂』は「視点を空欄」にした小説

―― この『書楼弔堂』という小説は「高遠」という、妻子を実家に置いてきて働きもせずにふらふらしている男の視点――というか、「高遠」の存在が中央にいて物語が進んでいきます。ただ、最後の章はその「高遠」が中心になるものの、それ以外の章においては、「高遠」がいてもいなくてもどちらでもよい存在のように思えたんですね。「高遠」がいなくても物語は成立してしまう。

京極 高遠という人は“要らない人”ですね(笑)。まったく世のため人のための役に立っていない。

fhfig834-2.jpg 『書楼弔堂 破暁』の著者・京極夏彦さん

 明治というのは激動の時代といわれます。明治を舞台にする物語の多くは、時代立ち向かう英雄や、新たな時代を切り開いていこうとする偉人を中心に描かれることが多いんですが、別にそういうヒーローばかりがいたわけじゃない。いつの時代もそうですが、ぼーっとした人やびくびくした人や迷ってる人や、そういうグダグダな人の方が圧倒的に多かったはずです。明治維新があって、近代国家の礎が築かれていく中、じゃあ庶民は何をしていたのかというと、ほとんどの人は、“起きて、食って、仕事して、寝て”いたんですね。自由民権も四民平等も、とても大事なことです。ただ、四民平等になっても豆腐屋さんは変わらずに毎日豆腐を作っていたわけで、日常生活に何も変わりはない。じゃあそういう人たちは時代の転換に一切寄与していないのかというと、決してそんなことはないんですね。世の中というのはひと握りの人がぐいぐい変えられるようなものじゃない。そういう風に見えるだけで、実はその他大勢が受け入れてくれるかどうかの方が大きいと思う。ドラスティックな転換というのは頭の中で起きるものでしかなくて、実はソフトランディングに変わっていくものだろうと思います。そうすると、明治時代にもいい歳をして働かず、妻子とも一緒に住まずにぶらぶらしている、いわゆる“ダメな人”もいたはずですね。こういう人が本を読んでも何の役にも立たないわけですが(笑)、実は読書というのはそういうもんなのではないかと。読んで役に立つとか、人生が変わるとか、そんなことはない。本は読んで面白ければいいもんだと思うんです。本って基本的に役に立たないものですから。役に立つのはマニュアルくらいのものですよ。

 弔堂の主人は、訪れる客に対して一冊の本を渡しますけれど、それはその人を更生させようとしているのではなくて、その人の人生を後押ししてるだけなんですね。

―― 確かにそうですね。その人とは逆の本を渡しません。

京極 ダメな人には、ダメっぷりを後押しする本を渡してますし。高遠はいろいろ悩んでいるようなんですが、あれは悩むフリをして自己正当化を図っているだけで、まさに下手の考えなんとやら、ですね。人生に決断は必要ですが、結論は必要ない。ものごとには結果がありますが、人生は終わるまで結果なんか出ない。人は死ぬまで未完です。同時に、人は簡単には変わらないし、成長もしません。なら悶々としているより、ダメな部分を含めて自分なんだと知ることの方が有意義ですね。高遠もまったく成長しないですから。

―― 最後に少しだけ成長をうかがえる部分があるようにも見えましたが……。

京極 どうでしょうか。むしろ退化しているんじゃないかという気もします。

―― この連作短編が「未完」という章タイトルで終わるのも、とても印象的でした。終わらせないというか、終わりがないというか。

京極 そうですね。エンドマークが出るのは小説やドラマだけです。わたしたちの住む世界は終わりません。人は何かと節目や折り目をつけたがりますけど、例えば誕生日を迎えたからといって、翌日から新しい人生が始まるわけではないですね。目が覚めればいつもと同じ一日です。生まれ変っわったような気になるのは良いことでしょうが、生まれ変りわりたいと願うのは、ない物ねだりです。

―― 短編それぞれの章の最後が「誰も知らない」という言葉で締めくくられているのは、京極さんがリアリティを突き詰めていった結果なのでしょうか。

京極 それは、僕が知らないからです(笑)。なら誰も知らないはずです、その後のことは。

 それから、あまり指摘されないんですが、実はこの小説、厳密ではないものの一人称がないんです。『わたしは』『僕は』を使ってない。でも三人称一視点でもない。視点を空欄にする感じで書いてみたかったんですね。高遠がぼやっとした人というのもあるんですが、内的言語では『オレ』は省略されるはずで、読者が視点人物の空席にはまるような感じは出せないかなと。

―― 「視点を空欄にする」というのは、すごい発想です。

京極 これは娯楽小説なので徹底してやっているわけではないのですが、試みとしてはありかなと思ったもので。

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