「電子書籍」に向く人、向かない人eReading Maniacs――「電読」の楽しみ(2)

百聞は一“読”にしかず、論ずるより“読”むが易し。「電子書籍」の未来は、その読者によってこそ語られるべき――。売る側の論理ではなく、読み手の論理で「電子書籍」を考える本連載。今回は、「電子書籍」に向く人、向かない人を考えます。

» 2012年02月20日 10時00分 公開

 前回述べたように「電子書籍」はそれ自体すごく楽しいので、私も多くの人に勧めたいという気持ちはある。とはいうものの冷静に考えてみると、残念ながら現状の日本の「電子書籍」サービスは、まだまだ万人に手放しで勧められるような代物ではないというのが正直なところ。

 さまざまな「電子書籍」サービスが乱立し、どこで何が買えて、何ができるのか(あるいは、できないのか)、日々追いかけていても全容を把握するのはなかなか難しい……というのが実情。どこもサービスのあり方を手探りで模索しながら日々改善している過渡期にあり、読者が望んでいることからすると、あちらを立てればこちらが立たずだったり、帯に短したすきに長しだったりと、どこか1つで話を簡単に済ませられるような状況では決してない。

 どこでどんな本が買えるかという基本的なことですら、読者自らが手間を掛けて検索、情報収集しなければならないし、サービスごとにビューワの機能や操作性が微妙に異なるため、読みたいコンテンツをどのサービスから買えばいいのかの判断も迷うところ。その上、いま購入した「電子書籍」を未来永劫読み続けられるかというと、いろいろなリスクがあって、そうとは限らない。私自身、将来的に無駄になるリスクを覚悟の上で、それでも刹那的な快楽のために手を出している自覚はある。もちろん、そう遠くない将来には、もっと幅広い層の人たちにも勧められる「電子書籍」サービスが出てくることだろう。読めなくなるリスクを気にせず安心してコンテンツを購入でき、読みたいものを、読みたい端末で読める日がきっとやってくる(と信じたい)。

 というわけなので、現状の日本の「電子書籍」に限っていえば、それに向いている人、今それに手を出しても大きく失望することはないだろう人というのが、ある程度、限定されるのではないかと考えている。

モチベーションと順応性

 そうした人に何よりもまず必要なのは、「電子書籍」に対するモチベーションだ。本を読みたいというだけなら何も苦労してまで「電子書籍」で読む必要はないわけで、電子化されたコンテンツをディスプレイで読むということに対する確たる動機がなければならない。

 それは、いつでもどこでも読みたい、思い立ったときにすぐ読みたいという渇望かもしれないし、紙の書籍だと読むのが辛いという、やむにやまれぬ事情かもしれない。どんな動機でもいいけれど、現状の日本の「電子書籍」サービスにおいて読者が強いられる「困難」を乗り越えられるぐらい強いものでなくてはならない。

 もう1つ、モチベーションと並んで大事だと思うのは、順応性だ。今ある困難を従順に受け入れろという話ではなく、「電子書籍」は紙の書籍とは読書の感覚が違うものだということ。その違いに慣れることができなければ、「電子書籍」を楽しむことなどおぼつかない。

 「電子書籍」は、その名の通り電子ディスプレイで本を読むものであり、紙に印刷していたものが、液晶や電子ペーパーのような電子ディスプレイによる表示に変わっただけ……であるはずなのだが、実際に読んでみると、紙の書籍での読書に比べてずいぶん勝手が違うと感じられる。私も最初のころは(当時使っていたのはZaurusという電子手帳)、自分が今読んでいる部分が、全体のどの辺に位置するのか分かりづらいことに強い違和感があり、読んでも読んでもなかなか頭に入らないという、もどかしい思いをずいぶんした。

 ディスプレイに一度に表示できる文字数が少ないせいかとも思ったが、大きなディスプレイを使って表示文字数を増やしてみても違和感は変わらなかった。よくよく考えると、紙の書籍であっても1ページ(あるいは見開きページ)に印刷できる文字数に限りがあることは同じなのだから、根本的な違いはないはずである。それなのにディスプレイで本を読んでいると、まるで遮眼帯をつけた競走馬のように、狭い範囲だけを目にしながら読み進めているような違和感があるのはなぜだろう。

 一定分量以上の文章を理解しようとするとき、人は、いま目を置いているところが文章構成上のどの部分に当たるのか、例えば、導入部を受けて本論に入ろうとしているのか、最終的な結論を述べようとしているのか、はたまた、新たな展開となる事件が発生しようとしているのか、といったようなことを常に把握しながら読み進めている。当然、本というボリュームのあるコンテンツを読むときも、そうしたことを無意識のうちにも行っているはずだ。そして、紙の書籍を読んでいるときは、そうした文章構成上の位置(特に自分が目を置いている箇所の、全体における位置関係)を把握するのに、紙のページをめくるという物理的な動作(およびその結果)を無意識のうちに利用しているのではないだろうか。すなわち、ページをめくるとき、すでにめくったページと、これからめくるページのだいたいの量(=全体分量における現在位置)を、厚さやページの開き方(ノドのところの盛り上がり方)などから無意識のうちに感じ取り、それを文章構成上の位置関係という抽象的な情報を記憶するための手がかりとして利用しているのではないか。

 「電子書籍」では、ページめくりの物理的な感触はまったくないので、そうした抽象的な位置に関する記憶をそれ単独で行わなければならず、そのため、内容が頭に入りにくい、何度も戻り読みしてしまう、というような症状が出てしまうことになる。「電子書籍」のビューワによっては、読んでいる位置をプログレスバーとして表示できるものもあるが、抽象的な情報を記憶するための補助としては、ページをめくる手の感触には及ばない。

 ……というのは、まったく私の推測に過ぎないが、いずれにせよ「電子書籍」の読書は、紙の書籍のそれとはかなり違うものであることは確かで、誰にとっても慣れが必要という面はあるだろう。これを克服しなければ、「電子書籍」を楽しむというのはなかなか難しい。

 ただし、この違和感は慣れることによって克服できる。順応性が大事と述べたのは、まさにこのことで、いかに早く慣れられるか、あるいは、慣れるまでモチベーションを維持できるかが、「電子書籍」を楽しむ境地に至る鍵となる。言い換えると、「電子書籍」に向いている人とは「モチベーション×順応性」の積が一定以上あることが必要で、モチベーションと順応性のどちらかがゼロでも辛いところ。これを図にすると以下のようになる。

 この図で、色が濃いところに位置する人ほど、すなわち、モチベーションが非常に高く慣れるまでに時間が掛かったとしても続けられる人ほど、あるいは、モチベーションはそれほどでなかったとしても順応性が高く苦労することなく「電子書籍」の読書を楽しめる人ほど、「電子書籍」に向いているということになる(あくまでも、日本における現状の『電子書籍』では、ということだが)。

 ちなみに私の場合、動機としては視力の衰えで紙の書籍を読むことが辛くなった(けど、読む量は減らしたくない、むしろもっともっと読みたい)というかなり強い動機があり、ディスプレイによる読書に慣れるまで1年ほど要したものの(慣れるために20冊ぐらいの本を何度も繰り返して読んだ)、何とか「電子書籍」を楽しむことができるようになった。今では、「電子書籍」でもまったく違和感を覚えることなく、読書スピードも遜色ない。むしろ、コントラストや文字の大きさなどを調整できる関係で、紙の書籍より「電子書籍」の方が読みやすく感じ、かつ読むスピードも速いぐらいだ。

左は「推理日記II」(佐野洋)の文庫版1刷(1986年9月)。右はその「電子書籍」版で、BookLive!にて購入。ビューワのフォントサイズを「極大」に設定しているにもかかわらず、さほど文字が大きくならないのは、老眼の身には辛い。

興味の間口は広いか?

 そもそもの話として「電子書籍」に読みたいものがあるかどうか、ということも考える必要がある。現状の日本の「電子書籍」サービスについて言えば、品ぞろえは決して多いとは言えないので、その中で自分が読みたいものを見つけられるかどうかは、「電子書籍」を楽しめるかどうかの鍵になる。

 品ぞろえの話でよく言われるのは「大型書店ぐらいの品ぞろえがないとダメだ」というもの。最低でも数十万冊から百万冊ぐらいは並んでないと選ぶものがない、というのだ。果たしてそうだろうか?

 書店の品ぞろえというのは、出会いの確率に過ぎない。無作為に抽出して、それが読みたい本かどうかという話なら、確かに品ぞろえは多いに越したことはない。しかし、実際の本選びはそういうものではないだろう。もちろん、大型書店ぐらいの規模があれば選びがいがあることは間違いないだろうけど、だからといって、小規模だから読みたい本がないとは限らない。小規模でも自分のツボにはまった品ぞろえなら、いくらでも読みたい本は見つけられるし、人によっては、駅のキオスクの隅に並んでいる20冊ぐらいの中からだって、読もうと思える本の1冊や2冊は見つけられるということもあるだろう。私自身もその口だし、私が本好きにこそ「電子書籍」を勧めたいと言っているのは、こういう理由も含んでのこと。

 要は、その人次第。現状の日本の「電子書籍」サービスは品ぞろえがまだまだ限定的というのはその通りだが、純文学からライトノベル、新書もあればビジネス書もあり、古典だけでなく最新作も中にはある。もっともっと増えて欲しいというのは同感だが、今でもそう捨てたもんじゃない。自分が、読みたいと思える本が多い(=興味の間口が広い)タイプなのかどうか、もしそうなら「電子書籍」を楽しめる可能性は高い。

理想の「電子書籍」を目指して

 誤解されると困るのだが、現状の日本の「電子書籍」は楽しむに値しないと言っているのではない。楽しいし、楽しめるのだが、まだまだ万人向けではないし、手放しで勧められるものではない、と考えているだけだ。

 現状の報道などを見ていると「電子書籍」のための端末に注目が集まることが多いようだが、そこへの興味だけで「電子書籍」に手を出してしまい、大きな失望を味わうことになるのを危惧している。「電子書籍」それ自体は悪くない。現状の日本の「電子書籍」がまだ理想に遠いだけなのだ。もちろん、少しでも早く、多くの人に勧められる「電子書籍」が日本でも広がることを願っているし、この連載も、そのためにできることを常に考えながら綴っていきたい。

「電読」案内:『推理日記 I・II・III』(佐野洋)

推理作家の佐野洋が、雑誌「小説推理」の創刊号(1973年2月号)から連載していた推理小説時評をまとめたもの。ここからさまざまな論争が繰り広げられたことでも知られるが、作家がどういうことを考えながら創作しているのかという現場が垣間見えるのも興味深い。ただ残念なのは、文庫版を底本にしているにもかかわらず、文庫化の際に加えられた索引が省かれていること(SpaceTown Booksにて購入した電子版で確認)。あと、どの「電子書籍」サービスでもこの3冊しかないが、単行本では11巻まで出ているようだ。電子版でも続刊を期待したいところ。

→ 紀伊國屋書店BookWebPlus、電子文庫パブリ、電子書店パピレス、GALAPAGOS STORE、hontoなどで販売されている。なお、本稿執筆時点において、Reader Store(ソニー)では取り扱いがなかった。


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